入笠山は春から夏にかけては高山植物の宝庫といわれ、冬はスキーと一年を通して楽しめる山である。山頂からは八ヶ岳、富士山、南アルプス、中央アルプス、北アルプス、奥秩父などの山々の展望も思いのままである。今年の夏、久しぶりに訪れたところ、山頂の山名盤がフルカラーの新しいものに変わっていたので、びっくり。富士見町役場から画像を送っていただいたので、来年の検定問題に出題しようかと密かにねらっている。今、山は来月8日のスキー場オープンを目指して雪づくりの真っ最中。スキーに来られた方は少し足を伸ばして山名盤を見に行かれたらと思う。
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入笠山の山名盤
播隆上人
今年のヤマケンの問題に槍ヶ岳の開山の祖は誰か?といったような問題が出ていた。このくらいの問題はへー助もわかった。しかし、播隆上人の銅像が松本駅に建っているとは知りませんでした。それで、播隆上人を見てこようと松本駅に降り立った。なるほど立派な播隆上人の銅像でした。
へー助は松本駅に降りることがあっても、居酒屋に直行していました。反省。
では、問題を作りましょう。「槍ヶ岳開山」を書いた小説家は誰でしょう?
初雪
11月の信濃大町はなごりの紅葉というにはあまりにも冷たい時雨に洗われ、薄墨のシルエットがかすかに山の姿を浮かびだしている。降ったばかりの雪の小径は風にあおられ、枝を離れたカラ松の小針が雪のキャンバスに不思議なパターンを描いている。
ナンダ・コッタにならいように
ナンダ・コット(コート)
立教大学の鹿島槍山荘にお邪魔した。先日のヤマケンの問題で最も正解率が低かった問題は「日本が最初にヒマラヤ遠征に挑戦し、登頂に成功した山は?」だったが、立教山岳部の鹿島槍山荘にはナンダ・コットの登頂した写真が飾られていた。戦前における唯一のヒマラヤ遠征だったそうだ。現役諸君の活躍を祈る。
山を想えば人恋し 人を想えば山恋し
信濃大町文学碑巡り
信濃大町に来た。偶然手に取ったリーフレット「信濃おおまち文学碑めぐり」を読むと、信濃大町周辺には30以上の文学碑があるらしい。ヘェ~、知りませんでした。鹿島槍の帰りにはそば屋で日本酒と決まっているものですが、今後、こころを改め信濃大町文学碑巡ります。
JR信濃大町の駅前には有名な「山を想えば人恋し 人を想えば山恋し」の石碑があります。この作者を書きなさい。【ゴールドコースの問題】
ナンテ・コッタ
シルバーコースに、戦前に日本が行った本格的なヒマラヤ登頂成功の山を問う問題が出たが正解率が13%、ナンテ・コッタ。1936年、立教大学山岳部はガワール・ヒマラヤのナンダ・コット(6867m)の登頂に成功。その後、戦争のため長い間ヒマラヤ登山は中断した。マナスル登頂は戦後1956年、槙有恒率いる日本山岳会隊の今西壽雄、ギャルソン・ノルブらによって登頂された。世界で初めて、日本人が初めて8000m峰に登頂した瞬間で、戦後の打ち拉がれた日本にあかるいニュースとして取り上げられた。当時の極地法の登山形態は多数のコストと装備、チームワークが必要で国家事業に近い大イベントだった。
ツアー登山 万里の長城で遭難
11月5日の新聞では、A社が企画する中国万里の長城「城壁の100kmトレッキング」ツアーで遭難があり、3名が死亡した。原因は想定外の雪にあい、参加者の軽装が原因で低体温症を起こしたようだ。新聞報道では、またしてもガイドの天候判断ミスで2009年のトムラウシ大量遭難の教訓が生かされていなかったと厳しい論調だ。
ここでは遭難の原因や論評はしないがツアー登山について考えてみたい。 90~95年にかけてツアー登山が盛んに行われるようになった。ガイドが連れて行ってくれて確かにツアー登山はお手軽で便利になった。しかし人任せで地図や磁石も持って行かない人もいると聞きます。こんな極端な例は別としても、へー助の個人的な意見を言えば、山のおもしろさの半分を失っているのではないかと思います。山登りのおもしろさは、仲間とあるいは一人でも地図を広げ、ガイドブックやインターネットでコースを選び、どうやって行くのか鉄道やバスを探し、地域の名物やお土産なども知ることから始まると思う。地図を見れば自然と山の名前や知らない読み方も覚えます。山を歩いていても事前に地図を見ていれば、エスケープルートも探せます。なにより想像力を膨らませ、山歩きの地図上インスペクションを楽しめます。
自分で山を探し、自分で計画し、自分のペースで歩く。これこそ山旅の醍醐味ではないでしょうか。
「山を知り、己を知る。」ヤマケンのスローガン